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のがれられない二世テリトリー

昨日の記事「宗教の二世の話」の続き。

 

フェアではない、と思う。

 

自分が良いと思って選択したものを他人に薦める。それは大人の関係としてはいいだろう。余計なお世話と言われることがほとんどだろうけれど。そして他人には拒否権もあるから受け取らないという選択もできるわけだ。まあ、言ってみれば、それが本来自己責任での選択というやつであって、宗教を選択する意志というのは他人がどうこう言えるものではないのだ。

宗教は拠り所で、信仰や崇拝を求めに行くところなので、それは個人の意志。

 

でもこれが親子間、いわゆる二世だと勝手が違う。暴虐だ。価値観を押し付けられ植え付けられるのは最早道徳倫理云々を超えている。端から全てを否定し、ただひたすらに宗教だけを肯定する人間を造るわけなのだからそれは選択でもなんでもない。押し付け。植え付け。洗脳。虐待。

 

極論で言えば「人を殺していい」と育てられた人が「人を殺してはいけない」という世間に馴染めないという事態が発生する。そこまではひどくはないんだろうけれど、ある程度はひどいよ。

そうなると馴染めなく生き辛いので、宗教の間違いを薄々認識しながらも宗教テリトリーで暮らしていく人生しか選べない。二世の葛藤というのは正しくここだと思う。そこ以外で生きられないのだ。そこ以外で生きられないことを知っているのだ。だからそこでしか生きられない。そこに居たいわけではないのに、そこから外には行けない。感性や感覚、認識が異なるので、テリトリーを外れることは敵わない。ずるずると、間違っていると感じながら、その場に留まらなければいけない。

 

形成された概念を宗教によって覆されるはありだけど、形成されてないものを作り変えてしまうのはフェアじゃないし、それはもはやただの虐待。

宗教は個人の自由。でも親子は完全なる別人なんだから、親が学んでいたって子供にむりやり学ばせてはいけない。子供が自分で選択できるまでは宗教を押し付けてはいけない。そんな当たり前のことが真理だと盲信している人間には通用しない。ここを突かれると彼らは口を閉ざす。宗教は人権尊重を訴えながら人権侵害をする。

| 2018.02.21 Wednesday | 雑記 | 壱原 | 拍手ビンタ |

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