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軽傷は声がでかいよね

内容は似ていても密度が全く違っていて、被害も軽傷と重傷でだいぶ異なることがままある。

トラウマになるかならないかみたいなの線引みたいな。

 

時間が薬だったりもするのだけれどそこから一歩も動けなくて時間さえ止まっていて、身動きもできない消化もできない治療もできない、ただひたすらにボロボロの体で、なのに無情にも過ぎていく時間は特効薬にさえならず、かえって蝕む毒となる。なぜ自分は動けないのかとなぜ自分は乗り越えられないのかと無慈悲にも自分で自分を責任で閉じ込めて雁字搦めにして傷口をえぐり出す。時間が直してくれるのならば自分は治るべきだ治らないのは怠っているからだと責め、トラウマは矛先を変えてゆく。

 

事象は大抵残酷なので、似たり寄ったりな内容でも千差万別。

かすり傷程度で済む人も居る。

 

そういう人は端から怪我をしていない。そもそも時間に縋らない。身動きも出来るし怪我もしていないので治療も消化も必要ない。元気な体でほんの少しだけ傷付いてしまっただけ。ただの事故みたいなもの。不幸な、それこそ急に降ってきた雨にふられてしまったような、その程度しかダメージを受けなかった人。これは捉え方云々ではなく、事実として傷の浅かった人の話。

 

このような人は得てして声が大きい。さも当事者、さも重傷者のように振る舞い、本当の重傷者を貶す。無論、本当に支援が必要である重傷者ではないので重傷者を気取ることは不可能であり、結果として重傷者の存在そのものの否定となる。なぜなのか? 人間、自分がしていない体験には無頓着で否定的で、そして信じないからだ。

例として、一般的な家庭に育った人は虐待家庭という存在を信じないだろう。まあ今はネットがあるし情報は幾らでも入ってくるが、ニュースにならなければ隣の家が虐待家庭だとしても気付かないだろう。そして恐らくだが、一般的な家庭の人が抱く虐待と、本当に行われている虐待はまったく異なる。

 

なんかまあいつか書くかも知れないけれど……気分がいいときとかに。

虐待されてたり虐められてたりすると、当人はそれを否定したりするからね。わたしは虐められてる時に虐めを否定したことがあったよ。それは自尊心を守るためで、決して学校や親に知られたくないという理由ではないよ。なので事の全貌は公には出にくい。

自分自身を守るための嘘。殻を作って精神を守ろうとするんだよ。酷い目に遭っているのは自分じゃないと思うんだよ。そうやって自己破壊が続いていくんだよ。もうこれはわたしの悪癖だね。

| 2018.05.04 Friday | 雑記 | 壱原 | 拍手ビンタ |

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